2020年のゴールデンウィークから数回にわたって企画されてきたバーベキュー。これがやっとつい先日実行されることになった。1回目はコロナの影響で中止。2回目は大雨で中止となり、今回が3度目の正直となる。企画されるたびに呼ばれるメンバーは減っていき最終的にはしつこくバーベキューをやりたいという2名だけが残り開催されることになった。
招待していただいたのは郊外の一軒家。駐車スペースが数台分あって、ウッドデッキや庭もありバーベキューをするには理想的な場所。ホスト夫妻と自分と友人の計4名で午前中11時から開始されたバーベキューは食べたり、飲んだり、そして飲んで、飲んでを繰り返していた。久しぶりに友人とも顔を合わせることができて、楽しいひと時を過ごせた。会っていない間に、みんな色々なことがあったようで、それぞれの話題で盛り上がり気が付けが時間は20時を回っていた。
ホストは到底会費では賄えないくらいの質の良い肉や魚を用意してくれて、また普段手に入らないような日本酒もたくさん取り揃え飲ませてくれた。最近では手ぶらでバーベキューやグランピングなどが流行っているけど、それよりも食べたいもの、飲みたいものを取り揃えてやる方が絶対的に楽しい。準備と片付けに手間はかかるけど、時間をかけて準備したり、仕込んだものは、見ず知らずの誰かにサーブしてもらうものとは全く違う。とても特別なバーベキューになる。
最近、自分は手捏ねのパンをほぼ毎週作っている。これも本当は店で買ってしまう方が安いし手間がかからない。わざわざ時間をかけて作るのは、時間もあるし、作れる環境もあるからだけど、それ以上にそのパンを「美味しい」「また食べたい」と言ってくれる人がいるから。その人たちのために作っているようなもの。事実、作ったパンは全部人にあげてしまって、自分はコンビニで買ったパンを食べていたりする。
人生の裕福さとは、地位とか収入とかはあまり関係ないと思っている。それよりも大事なのは「友達」で、友達がいるだけで間違いなく人生は裕福になる。そして、自分が置かれている環境で友達に精一杯のことをする。今回は食に関することだけど、それ以外のことでも同じだと思う。
さて、この記事の題名ににある「友達の定義」だけど、みんなはどう考えるのだろう?この定義が定まっていないと友達が「多い」「少ない」とかいう議論は、人それぞれによって計るものさしが変わってくるのであまり意味がない。最近よく耳にするのはどんな年齢・性別であっても「自分は友達が少ない」というフレーズ。どんな場面でも「自分は友達は多いよ」と言っている人には出会ったことが無い。それは何でなのだろうか?
友達の定義が厳しい、いわゆるハードルが高くなっているのだと思う。そのハードルの関わるポイントは以下のようなものがあるのではないかな?と思う。
- 連絡をとりあう頻度
- 実際に会う頻度
- 一緒に旅行に行ったことがある
- 困った時に相談ができる
- ダメな部分も指摘してくれる
- 指摘されても嫌な感じがしない
- 特に用事は無いけど会いたいと思う
などなど、人それぞれ、他にもたくさんのポイントがあると思う。自分はこの中で一番重要なのは、連絡と会う頻度だと思う。「数年ぶりに友達に会う」というような話を聞くことがあるけど、自分には少し違和感があって、そのぐらい間が空いてしまったのであれば、それはもう「友達だった」に格下げされている。だから、学生の頃は友達が複数いる。毎日同じ学校に通い、顔を合わせ、話をすれば連絡と会う頻度がかなり多い。
学校も卒業し、何かに毎日通うというと仕事場や会社になるが、そこで出会う人を友達に出来ない、認められない人も多くいるだろう。なぜなら、そこではどうしても損得勘定が生まれてしまい、例え趣味の合う、話が合う二人でも、いざ仕事となると「あいつは仕事が遅い」「いい顔して抜け駆けしてる」「入電を積極的にとらない」など負の感情が多くなり「会社の知り合い」というポジションに留まる。だから、会社では仕事もできなく冴えない感じの人が会社の人が居ないプライベートな集団のヒーローになっていることもしばしばある。
リアルな人と人との関係性が希薄になっている現代で今から「友達」と呼べる人を作るのは大変だし、自分は友達なんかいなくても楽しく過ごしているという人も多いかもしれない。しかしSNSに代表されるバーチャルな繋がりがこれだけ流行る(蔓延する)のは皆、どこかで友達が欲しいと思っている現れなのではないだろうか?
前筆したとおり人生の裕福さとは地位やお金ではないと思っている。これからどんどんと月日が経ち、歳を重ねて、変わってゆく未来で話したり、笑ったりできる友達を大事に、または作っていくことが、大げさかもしれないが自分・社会・未来にとって必要なことだと思う。
Photo
場所 : 愛知県名古屋市
被写体 : 手捏ねライ麦パン