相談してくる人が本当に欲しいと思っているのは「正論」じゃなくて「共感」

郡上市-郡上八幡-街並み-1103 Diary

この世で、何が「正しく」て何が「間違って」いるのか?

最近、人との接し方についてよく考えることがある。自分はどちらかというと可もなく不可も無く、初対面の人とも接することが出来るし、別に嫌でもない。むしろ今まで知らなかった誰かの話が聞けることは楽しみでしかない。好きな物、過去にあった出来事、昨日食べたご飯など・・・。自分が他のことをしている時に、目の前にいるその人は全く違うことを考え、思い、何かをしてきた。自分にとってそれはドラマを見ているのと同じ位ワクワクする。どういういきさつでその仕事をしているのか?なんでこの土地に住んでいるのか?皆、それなりの理由がありここにたどり着いている。そして目の前の自分となぜか話していたりする。

そして人から相談をされることも多い。何かを相談されても正解を伝えることが出来るわけでもなく大抵の場合、「解」を言うことは無い。はっきり言って何が「正しく」て何が「間違っている」なんて、この世の中にはあまり存在しない。何かの本で読んだことがあるけど、相談内容に対して、「自分だったらこうする」「こうした方が良い」なんてことを言う必要は無く、相手の思っていることをよく聞いて「共感」しなさいと書いてあった。それは相談してくる人が本当に欲しいと思っているのは「正論」じゃなくて「共感」だからだ。

共感する人が増えるとそれは共鳴していく。

「自分が感じていることが、自分と同じように感じる人がいる。この私感覚はおかしくないんだ!だって、この人も、そしてこの人も同じ感覚を持っていて、共感してくれているから・・・。」

となる。そしてそこには「正論」も無ければ「解」もない。空虚な空間しかない。しかし殆どのケースはそれで良いらしい、自分に起こった出来事をただ人に話したいだけだから。

考えると相談をされる側としては、ただ人の話を聞いて共感をしていれば良いということになるけど、これほど退屈で苦痛なものは無い。打ち明けている方は気持ち良く発散をしているのかもしれないけど、聞いている方には何のメリットもない。むしろ、相談された内容に対して、諭したり、意見をして相手が不快に思ったら、怒られたり、嫌われたりするので相談される側のリスクは大きい。だから、だれかに相談を持ち掛けられたら、受け答えに相当気配りした方が無難だ。

そういえばこの1年くらいの間に何回か自分が誰かに相談したいことがあった。しかしそういう時になると親しかった人からの返答が素っ気なかったり、連絡が取れなくなっていたりして、相談を持ち掛けるまでに至らなかった。改めて考えると相談を出来なくて良かったのかもしれない。それをきっかけに不仲になる可能性もあったから。だから自分の悩みは自分ひとり解決しようと思う。

Photo

場所 : 岐阜県郡上市
被写体 : 郡上八幡の街並み
撮影ポイント :

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